タイトル:折り紙の囁き
- 2024.12.12
- 月刊芳美
タイトル:折り紙の囁き
前編
昼間の電車。車内はほとんど空いていて、わずかな乗客がそれぞれの目的地に向かう時間帯。優先席の真ん中が空いていたので、彼はそこに座った。周囲には数人のお年寄りが目立つ中、左脇の小柄な老婆は眠っていた。穏やかな寝息が、静かな車内に音を加えている。しかし右脇に座った老婆の膝元から、奇妙な音が断続的に聞こえてきた。それはしばしば耳に入るけれども、最初は気に留めることなく過ごした。
だが、次第にその音が異常なまでに続いていることに気づく。その音がただの擦れ合う音ではなく、何か意図的に反復されていることがわかる。彼は無意識にその方向に視線を向ける。
老婆が、手に取った小さなビニール袋から折り紙を取り出し、一枚一枚慎重に対角線を折りながら、四分の一に畳んでいく。音はそのたびに響く。小さな手が繰り返す動作、まるで呪文を唱えるように、そのリズムは一定で、時折しわくちゃの折り紙が彼の耳元でかすかな音を立てる。観察していると、何か不安感が胸に湧き上がる。
「どうしてこんなことを……?」
彼はその行動が異常だと感じるが、同時にその異常さに心を引き寄せられていく。目の前で繰り返される動作の中に、何か深い不安が潜んでいるような気がした。
そのとき、ふと向かいの席から感じる視線に気づく。初老の白髪の男がじっと彼を見ている。その目が、まるで彼が覗き見をしているのを見つけたかのように鋭く、何かを問うような視線で彼を捉えていた。彼は一瞬、心臓が跳ね上がるのを感じる。
「見てはならないものを見てしまった……」
その瞬間、彼は不安の波に呑み込まれた。目の前の老婆の行動を無意識に観察してしまっていた自分に気づいたのだ。それが「悪」であり、自己の深層で何かが崩れそうな感覚に襲われる。彼は急いで視線を外し、視線の交差を避けようとするが、心の中には言い知れぬ圧迫感が残る。
老婆の行為は、ただの奇妙な動作に過ぎないのだろうか? それとも、彼女の心の奥深くに潜んだ歪み、修正不可能なものが現れているのだろうか? 彼はその答えを見つけることができず、ただ車内の風景を眺める。
その時、彼の中で一つの考えが浮かぶ。
「悪は、心の病かもしれない。罪という形で顕れることがあるとしても、病として最初は静かに始まり、いつの間にか広がっていくものではないのだろうか。」
彼の視線が再び老婆に向けられる。彼女が折り紙を畳み、袋にしまうその動作は、まるで自分を守るような、あるいは静かな戦いのようにも見えた。その小さな折り紙の一枚一枚が、彼女の内面に広がる不安や孤独を象徴しているかのように、彼には思えた。
そして、白髪の男の視線が再び彼に届く。その目は、彼が見たものを理解しているかのように、あるいは彼が自分を覗いていることを理解しているかのように、ただ静かに彼を見つめている。しかし、男の視線の中には非難や怒りはなく、ただ彼の内面に問いかけるような深い沈黙が漂っていた。
彼はその視線を感じながら、心の中で「罪」を認識する。自分が何も悪意なくしてしまった行為、それが自己を見失わせ、彼に不安を呼び起こし、内心の「病」を引き寄せていた。
そして、彼はふと思う。この日常の中に潜む「悪」とは何だろうと。それは、外から見ればただの「異音」としてしか認識されないのかもしれない。だが、その音が織りなすリズムの中には、かすかな「病」が隠れていて、そしてそれが「罪」として表れるのだろうか? 彼の心の中で、その波は静かに揺れ続けていた。
後編
彼が再び視線を外すと、老婆の折り紙を折る音が次第に遠く感じられる。心の中で膨らんでいた不安が、少しずつ収まっていくのを感じた。しかし、その代わりに別の感覚が彼の胸に広がった。それは、目の前で繰り返される折り紙の動作に、無言の悲しみを感じ取ったからだ。彼女が無心に折り紙を畳むその姿には、どこか壊れた心の断片が見え隠れしているような気がした。
彼は再び、老婆の顔を観察する。薄く、疲れた顔立ち。その目はほとんど開いておらず、時折、遠くを見つめるようにぼんやりと視線が彷徨っていた。もしかしたら、この無言の繰り返しこそ、彼女にとっての「治癒」の手段なのではないか。彼はその瞬間、理解する。彼女の心の中にある「病」を、外からはただの奇行としてしか捉えられないが、彼女自身にとっては、必死に自分を保とうとしている行為だということに。
その考えが頭に浮かぶと、彼の心にも変化が起こり始めた。彼女の行為がただの異常行動ではなく、一つの防衛本能として、心の痛みや不安から自分を守るための試みだと感じるようになった。病とは、心が折れることなく続けようとする必死な戦いの一環であるのかもしれない。
そして、その瞬間、彼は初老の男の視線を再び感じ取った。今度は彼を非難する目ではなく、どこか温かく、受け入れのある眼差しが彼に向けられていた。男の目には、何かを理解しようとしている、そして何かを許すような深い静けさが漂っている。
男が微かに頷くと、彼はその目をじっと見つめた。彼が今、見ているものは何なのか。老婆の行為を異常だと判断し、罪のように感じていた自分。それが、誰かを理解しようとすることで、徐々に溶けていくのを感じた。罪のように見えたその瞬間が、実は誰もが抱える「病」や「痛み」によって生まれたものだと気づき始めていた。どんなに小さな動作でも、その背後にある深い苦しみを想像できれば、彼の心は許しの感情に包まれていく。
そのとき、彼の心に広がるものがあった。それは、自己の中で抱えていた「罪の感覚」――他者の苦しみや異常を無意識に非難し、遠ざけようとしていた自分への赦しだった。彼は気づく。異音として受け取った音が、実は彼女の心の中で続けられている一つの「生きる手段」であり、彼自身がそれを理解することによって、心の歪みが少しずつ修正されていく過程が始まったのだ。
そして、車内の風景が変わる。彼はその瞬間、深呼吸をした。すべてが許され、すべてが繋がっていくような感覚を抱きながら、目の前の景色を見つめた。車内の空気は、今までとは違って清々しく、温かなものに感じられた。
老婆が小さな袋に最後の折り紙をしまい終わると、静かな微笑みが彼女の顔に浮かんだ。彼女は何も言わず、ただ静かに窓の外を眺める。その姿が、彼にはどこか安らかに見えた。彼女の行為が、単なる「病」の現れではなく、彼女なりの「救済」であるかのように思えた。
車が目的地に到着し、彼は席を立った。車内の人々がそれぞれの場所へと向かう中で、彼はふと心の中に温かなものを感じていた。彼女の折り紙の音、初老の男の視線、そして何よりも、自分の中で揺れ動いた「罪」の感覚が、次第に消えていくのを感じていた。
💕
Whispers of the Folded Paper
On a daytime train, a man sat in the middle of an empty priority seat. To his left, an elderly woman slept quietly, her breathing soft and steady. To his right, another elderly woman sat with a small plastic bag at her feet. At first, the man didn’t pay much attention to the soft, intermittent sounds coming from her. But as he focused, he realized she was taking out small squares of origami paper from the bag, folding them carefully, creasing them at the diagonals, and reducing them to a quarter of their size, one by one.
The repetitive sound of the folding was oddly soothing, yet it felt strange. Intrigued, the man watched the woman intently, feeling an unease building inside him, as if he were witnessing something private—perhaps something he shouldn’t be seeing. He became aware of another pair of eyes watching him. An older man, seated across from him, had been staring at him steadily, his gaze unyielding.
The man’s heart skipped a beat. Had the older man noticed him observing the woman? Or was there something more to this interaction? The man could not tell, but he felt a creeping discomfort, as if he had been caught peering into a private moment.
As the train neared his stop, the man’s thoughts lingered on the folding of the paper. The woman’s actions, once seen as merely peculiar, now seemed to carry a deeper, more personal meaning. The sound of the paper being folded was no longer just a noise; it was a quiet, desperate ritual—a way for the woman to hold on to something in the midst of the chaos of her mind.
The man felt the weight of his own thoughts. Was it possible that what he had perceived as a strange, almost unsettling behavior was actually a manifestation of someone’s inner struggle—a kind of “disease” or “sickness” of the mind, trying to heal itself through repetition and routine? His mind wandered into the territory of sin, guilt, and illness, wondering if there was a connection between these concepts. Was the woman’s strange behavior a symptom of an emotional or psychological ailment? And what of the older man’s gaze? Was it a gaze of judgment or understanding?
In that moment, the man realized that his initial discomfort—the sense that he was witnessing something “wrong”—was in itself a reflection of his own inability to understand suffering and pain in others. The very nature of sin, he thought, might not lie in the actions themselves, but in the way they were judged, misunderstood, and isolated.
As the train reached his stop, the man stood up, but not before he caught the older man’s gaze one last time. This time, the man saw something different in the older man’s eyes—there was no judgment, no condemnation, but instead, an understanding. It was as if the older man had witnessed the unfolding of something within the observer, something that had begun to heal itself.
The man stepped off the train, his heart lighter than it had been when he boarded. He had been granted a glimpse into the fragile, intricate dance between pain and healing, guilt and redemption. And, for the first time, he felt as though he had found a way to forgive not just others, but himself. The world outside the train station seemed brighter, clearer, and more forgiving.
End