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白蛇の酒と、トキの祈り

白蛇の酒と、トキの祈り

むかしむかし、雲より低く、風より静かな町に、「三つの眼を持つ翁(おきな)」が住んでおった。人は彼を「三太郎」と呼び、神でも仏でもないものとして畏れ敬った。

彼の住む里には、願いが石になる丘があり、そこには千の石仏、百の社(やしろ)、ひとつの風が流れておった。

三太郎は、見えぬものを視、聞こえぬ声を聴き、それを人に手渡すだけの男じゃった。欲を持たぬことで知られ、人々の願いをそのまま「石に変える」術を心得ていたのじゃ。

けれど、ある年のある夜、風が止み、石の丘に火が灯った。
老翁の家は燃え、彼の魂は煙のように空へ昇った。
人々は口々に囁いた。

「火を点けたのは翁自身らしいぞ」
「いや、腹を裂かれとったらしい」
「遺体が二つあったという者もおるぞ」
「そんな馬鹿な……いや、あの人なら……」

けれど、その真偽を問う者は少なかった。
まるで“火”という出来事が、真実を覆い隠す結界のように広がったからじゃ。

――その焼け跡に、六ヶ月後、一本の白蛇が現れたという。

白蛇は人語を解さぬが、時折、息のような言葉を吐いた。

「われ、絹のごとき呪(しゅ)を解きに来たり。
この世に網を張るものの名を言うな。
名を呼べば、それは目覚める。」

その蛇を見たのが、「トキ」という爺だった。
神も仏も先祖も信じぬくせに、風の流れを読むことだけには長けておった。

トキ爺は、ある日、都より届いた不思議な酒を受け取った。
その名を「白蛇(しろへび)」という。
ラベルには一匹の蛇と、「還る水より生まれし者」と記されていた。

彼はその酒を仏間に置き、「これは飲むものではない」とだけ言った。

その夜、トキ爺の夢枕に三太郎が立った。
半身が炭のように黒く、半身が霞のように透けていた。

「トキよ、わしの声を聞く者は、もうおらん。
おぬしだけが残っておる。
白蛇は償いではなく、還すための鍵じゃ。
あれを水に沈めよ。水底に、まだ祈りが棲んでおる」

翌朝、トキ爺は白蛇の酒瓶を持って、町の裏にある無名の池へ向かった。
その池は誰も近寄らぬ、地図にも載らぬ場所で、「水に落とした名は戻らぬ」と言われていた。

瓶を沈めると、風が戻り、丘の石仏が一斉に目を閉じたという。
それ以来、三太郎の名前は町で語られなくなった。
語る者はいたが、語ったとたんに「それ、誰だったかな?」と記憶からすり抜けた。

ただし一つだけ、語り継がれたことがある。

「あの町では、蛇を殺してはいけない。
蛇は“視えない糸”を食べてくれるのだから。」

この物語を信じる必要はありません。
ただ、町を歩くとき、ふと視界の端に白い影が見えたら、
どうか、そっと目を伏せてください。
それは忘れられた者たちの“優しいお辞儀”かもしれませんから。