『触角とゴルフウェア』
- 2025.04.18
- 月刊芳美
『触角とゴルフウェア』
今日はクラブの寿々香の誕生日。
LINEの通知を見て、「祝ってやるか」という気分と、「まあ、ランチでも」という気分が7:3で勝った。
予約した和食の店で、すき焼き御膳。
俺はロース、彼女は霜降り。
話題は取り留めもなく続くけど、俺は一つだけ気になっていた。
——黒髪の“触角”。
額に垂れて、ふわふわと揺れるアレ。
運気が逃げそうだな、と思って、つい軽口で茶化した。
「切ったら?バサッと。あと茶髪にしなよ、運気的に」
言いながら、牛肉をつまむ。すると彼女、言った。
「もう少し伸ばして、ウィッグにして、ガン患者さんにあげたいの」
——ぎょっとした。なんだそれ。
「偽善じゃね?自分が幸せじゃないのに、誰の髪あげてんのよ」
なんて、得意の理屈で笑い飛ばしたけれど——
次の瞬間、彼女はその“触角”ごと髪をかき上げ、後ろでまとめた。
光が差した。
まるで、静かな神社の本殿で見上げる天井みたいに、空気が清まった。
「……断然、こっちがいいね」
自分の言葉が、背中に刺さった気がした。
思えば俺は、運気とか、スタイルとか言い訳して、
ただ“形”に縛られてただけだったのかもしれない。
その後、ゴルフウェアを買いに行った。
黒マスクに紺と黒のウェアで現れた寿々香に「清掃員かよ」とツッコミつつ、
有賀園の店内で“スタイル改造計画”開始。
白、ピンク、グリーン。パンツのラインもチェック、しゃがみ確認も完了。
試着室のカーテンの向こうから出てきた彼女は、もう完全に違う“波動”を放っていた。
レジを終えて、袋を受け取り、ふと彼女が鏡を見たとき、
少しだけ微笑んだ気がした。
——それだけでいい、と思った。
帰り際、駅前で彼女を降ろして、俺はひとり車を走らせた。
財布の軽さだけが、現実の重さを思い出させたけど。
それすら、今夜の“奇跡”の代金なら、まあ安いもんかもしれない。
『寿々香、黒髪を結ぶ』
誕生日って、なんとなく毎年、少しだけ重い。
お祝いされたい気持ちと、されなくていい気持ちが、
まるで昔の彼氏みたいに、ごちゃごちゃと背中のあたりでうずくまってる。
昼前、LINEが鳴った。
——「ランチ行くか?」
いつもの“あの人”から。
返事は、既読3秒。
うれしくなんかない。
でも、うれしくないわけでもない。
待ち合わせの店、すき焼き御膳。
こっちは霜降り、あの人はロース。
正直、味は覚えてない。あの人の言葉のほうがよっぽど濃かった。
「その髪、運気下がるよ。バサッと切ったら?」
「茶髪にしなよ、茶髪。触角みたいでさ」
——また始まった。軽口のシャワー。
うなずきもせず、うつむきもせず。
静かに笑って、ただ右手で、いつものように髪をかきあげた。
「……もうちょっと伸ばしたら、ウィッグにして寄付したいの」
自然に口から出た。嘘じゃない。本当にそう思ってた。
でも、あの人は笑った。
「誰かわからん他人に髪の毛?意味ないよ」
「可哀想なのは、自分の気持ち無視してる“自分”じゃないの?」
胸に、冷たい水。
でも、不思議とムカつかなかった。
どこかで、当たってるとも思った。
私はそっと、両手を頭にやって、髪をかきあげ、後ろで結んだ。
ゴムがパチンと弾けた瞬間、なにか空気が変わった。
あの人が一瞬、黙った。
「……断然、こっちがいいね」
その言葉は、まるで知らない誰かがくれた、ちいさなプレゼントのようだった。
食後、有賀園へ。
黒のマスクに黒パンツ、紺ジャケット。自分でも「やっちまった」コーデだった。
案の定、「掃除のオバサンかよ」って笑われたけど、
あの人が、なんだか楽しそうにコーディネートしてくれた。
白、ピンク、グリーン。
しゃがんだり伸びたり、試着室の中で、まるでファッション紙の編集者とモデルごっこ。
女性スタッフが「お似合いですよ」って言ってくれたとき、
嬉しくて、ちょっと泣きそうになった。
でも、笑った。鏡の前で、笑った。
帰り道、駅のロータリーで車を降りる時、
あの人は何も言わず、タバコに火をつけた。
私も、何も言わなかった。
けど、なんとなくわかった。
——今日は、奇跡だったって。